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エストニア11/エストニア12/エストニア13

TOARZにはA.セイラー関係でのごたごたの間ずっと放って置かれていたエストニア3の後継となるフォーミュラ3の計画が「エストニア9」として存在していた。しかし色々と落ち着いた63年の中頃になると余裕もできてきたのか、エストニア9計画を始動せようという機運が高まってきた。一方フォーミュラ1規定のマシンもTOARZはこれまで製作したことがなく、こちらもまた急務であった。そこで何としても成功させたい9のテスト車両としてフォ...

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エストニア10(タルトゥ2)

62年秋、タルトゥに向かったA.セイラーは前回の記事に書いた通り革新的なスポーツカーを目指しデザインを進めていた。一方でスポーツカーの完成が近付いた63年春にはフォーミュラ5規定に合ったフォーミュラの計画を考え始めた。エストニア8が完成した63年の秋、セイラーは要請を受けてTOARZに戻ることになった。そこで彼は「エストニア13」と名付けられるF1規定のフォーミュラをデザインし始める。一方タルトゥの自動車工場で働い...

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エストニア8(タルトゥ1)

61年に開催されたインターナショナルカップはソ連のレース関係者に衝撃を与えていった。もちろんTOARZの指揮を執るA.セイラーも衝撃を受けた一人であった。彼は1周も出来ずホイールトラブルで戦列を離れたことを悔いたと同時に、クルト・リンカーンを始めとしたフィンランド人たちが駆っていたイギリスのレーシングカーに驚愕した。エストニア3をより洗練させたかのようなクーパーT42は思ったよりもずっと強力、先進的なデザインの...

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エストニア5

1960年代初頭、ソ連始め東ドイツやポーランドではフォーミュラ・ジュニア(以後「FJ」とする)と呼ばれるカテゴリが広がりを見せていた。ソ連内ではモスクビッチG3やKVN-1300Gなどフロントエンジン車が大勢を占めたFJであったが、TOARZはミッドシップ車を引っ提げてこれに参入することを決めた。こうして計画が61年秋にスタートした。当初はR.ベルテロヴァとA.セイラーが携わっていたが、セイラーはインターナショナルカップに来襲し...

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エストニア4

1961年、成功を収めていたエストニア3の更なる性能向上を図ったTOARZはIMZ製のエンジンからチェコスロバキアのオートバイであるESO製の500ccエンジンに載せ換えたモデルを製作することを決めた。その際ギアボックスもESOから引っ張ってきたのも特筆すべき点だが、一番の変更点はボディであった。エストニア3とはまた違った雰囲気、フロント下部がやや絞られたように見える。またエンジン換装によるものかコクピット背後も異なるよ...

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プロフィール

ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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