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MCAサントナーレ/GTB/ボー・リヴァージュ/MIG M100

モナコ在住でレーシングドライバーとして活動を行っていたフルビオ・バラビオは熱狂的なエンスージアストでもあった。彼は次第に自らの自動車メーカーを興しそこで最も優れたスーパーカーを世に送り出したいと考えるようになる。そこでフルビオは、実業家であり彼の兄でもあるジュゼッペの支援を受けてモンテカルロ・オートモビルを83年に設立した。

ベラージ(イタリアの小規模コンストラクターで、F1参戦経験もある)に在籍していたエンジニアを招き、デザインが進められた。丁度90年にモナコ自動車クラブが100周年を迎えるというので、それに合わせて計画は進んでいった。こうして89年、「サントナーレ」(仏語で「100周年」の意)と名付けられたマシンのプロトタイプが完成した。



プロトタイプの1号車は赤に塗られ、バラビオの手によってシェイクダウンされたようだ。
デザインは「出来の悪いガンディーニ・デザイン」と揶揄されることも多い。…まぁ、これではそう言われるのも仕方ないだろう。特筆すべきはシャシーで、何とカーボンモノコックを採用している。当時としては極めて画期的であり、これもバラビオの最高への追求が現れていると言えよう。詳細は不明だが、このモノコックの製造は軍需工場が駆り出されたと言われている。


エンジンに関しては、自製は不可能であった上この時点ではどのメーカーとも契約を取り付けていなかった。そこでとりあえずはバラビオの私物であったランボルギーニ・カウンタックから拝借した。

こうして完成したサントナーレは90年にお披露目された。そこで幸運なことにアルベール王子に高く評価され、モナコ王室の支援を受けることが可能となった。これによりバラビオ兄弟は50万ドルで年12台販売するとの計画を打ち上げ、またランボルギーニとエンジン供給の契約を取り付けることが出来た。


そして完成した市販車型の1台である。こちらも鮮やかな赤である。よく「赤は1台のみ製造された」とあるが内装もピラーの塗りわけも異なるためプロトタイプと同じ個体ではないと思われる。サイドにLamborghiniのエンブレムが取り付けられている。



こちらは白のモデル。完成時期が不明なので何とも言えないが、ランボルギーニのエンブレムが見えないのでもしかしたら市販型赤よりも先に完成したのかもしれない。どうやらこの個体はモナコのレストランオーナーに売却されたようだ。


そして黒である。こちらもランボルギーニのエンブレムは見えない。内装も市販型特有の赤ではなく黒のように見えるが果たして…。

というわけで次々と完成するサントナーレであったが、カーボンモノコックなどの先進的技術は価格暴騰の原因となった。結果的に日本円での億を超えてしまったサントナーレは、ステータス性を求める富豪たちの心を掴むことが出来ず売れ行きは悲惨な結果となってしまった。
いきなり躓いてしまったMCAであったが、これで諦めるつもりはなかった。そして、彼らは92年にサントナーレに更なる改良とバリエーションを増やしてまたもプレゼンテーションを行ったのである。


まずはこの「GTB」である。不評の一因であったフロントのデザインを一新したサントナーレとデザインを共有するこのGTBであるが、注目すべきは中身であった。


作るからには世界最高ではならないと痛感したバラビオは、エンジンもランボルギーニからの借り物ではよくないと感じたのだろうか。彼はモトーリモデルニの戸を叩き、世界最速を目指すスーパーカーに相応しいエンジンの製作をカルロ・キティに依頼したのであった。
しかしキティ側はやる気を示さず、そこで選ばれたのはスバル・コローニ用に製作された幻のV12エンジンであった。


搭載に当たってキティはこのV12をツインターボ化した。2年経って、怪しげな改造をほどこされスーパーカーに載るF1エンジン。このような奇妙な経緯を持った「モンテカルロV12」は720hpを発揮した。これは当時、ダウアー962GTに次ぐものだったと言われている。



一方こちらはタルガトップモデルの「ボー・リヴァージュ」である。かのモンテカルロV12を載せられたボー・リヴァージュは間違いなく世界最速のタルガトップであっただろう。ボー・リヴァージュは信じられないがアルベール2世が所有したようだ。

こうして青に塗られたボー・リヴァージュ、GTB、そしてサントナーレの3台を披露したMCAは巻き返しを図ったが、無情にもモナコ王室の支援が受けられなくなることが決まった。大事なパトロンを失ったMCAは首が回らなくなり遂に事業を行うことが不可能となってしまったのだった。

しかし捨てる神あれば拾う神ということわざのように、「拾う王室」がやってきたのであった。

グルジア王室の後継者であり、実業家という珍しい経歴を持つアレクサンドル・ミングレリアはそんなMCAを見かねたのかバラビオ兄弟に買収の打診をとった。バラビオ兄弟は二つ返事でOKをし、MCAは「MIG」(ミングレリア&グルジアの意)として息を吹き返したのであった。
アレクサンドル・ミングレリアには野望があった。彼はトビリシにあるほんの少し前までMiG-29やSu-25を生産していた工場を購入していたのだ。
軍事工場の民間転用をしようと考えたミングレリアはそこでサントナーレを生産したり、ゆくゆくはF1マシンのモノコック製造などを行う計画を持っていたようだ。

一方バラビオはバラビオで新たなパトロンを得たためか、ある挑戦を心に決めた。それはルマン参戦であった。

ミングレリアはMCA買収の際にGTBとサントナーレを買い取っていたようだ。手持ちのマシンはその2台だけであるが、MIGはこの2台をどちらもレースカーに転用することを決めたようだ。

そして93年ルマンのテスト、遂にMIG 「M100」と名付けられた車が姿を現す。ドライバーはピエール・ハニッガーとジャンピエール・コンソーニ。



RSCによるとこの独立式リアウィングを着けた個体はランボルギーニV12を搭載していたようだ。内装はナビシートこそ取り外されているが完全にサントナーレ市販車のものである。やる気があるのかないのか微妙なところではある。
エントリー名は「グルジア・オートモーティブ」。グルジアの誇りを持ってエントリーしたのであろうが、タイムは4分53秒。まともに走れなかったらしいザウバーのC2よりは速かったが、同じGTクラスのオベールマイヤー964カレラ2からは4秒遅れる有り様であった。

散々な結果になったテストであったが、これでめげるはずもなくルマン予選にまたもM100は姿を現した。




今回は本気を出しに来たのか、モトーリモデルニV12ツインターボを積んだM100を持ち込んできた。ただしTカーとしてランボルギーニ搭載車も持ち込んだようだ。エントリー名は「グルジア・オートモーティブ・MIG」。


スポンサーが多少賑やかになっている。ブラーゴはバラビオのツテと思われる。ドライバーはハニッガーとコンソーニに加えフィリップ・ルノーを起用したが、ドライバーでどうにかなるマシンではなかったようだ。M100は異様なピッチングを起こし、ルノーは「常にマシンが跳ね、シャシーは捻れていた。こんなマシンではまともに走れない」と辛辣なコメントを残している。モトーリモデルニのV12と発展途上のカーボンモノコックは最悪の相性だったようだ。
タイムは驚くべきことに5分59秒を記録。プジョー905と比較すると2分35秒、すぐ上であるはずの964カレラ2と比べても1分以上の差があった。当然のように予選落ちを喫し、さしたる印象も残さずにフランスから消えていったのであった。

それでもレースでの活動を諦めなかったバラビオは、93年末のバレルンガ6時間にM100をエントリーさせる。ランボルギーニ搭載車のようだ。



黒く塗られたM100は何やら不気味な雰囲気を纏っている。ドライバーはコンソーニに加えてバラビオ本人、さらにグイード・ダッコを起用している。
多少は活躍が期待されただろうが、予選は31台中27位。1分45秒1というタイムはジョニー・チェコット/ロベルト・ラヴァーリアのM3GTRに15.5秒離され、何段階も格下のはずのアルファ75にさえ2秒離される始末であった。
決勝は特に大きなトラブルもなかったようで、135周走りきり24台中23位で無事完走している。とはいえ1位から93周離されてるのでまったく話にならなかった。

こうしてMCAとミングレリアの挑戦は終わってしまった。M100は輝かしい栄光を掴むことが出来ず、2つの王室が関わるという極めて奇妙な車は関係者の失意と共にモータースポーツ界の歴史の渦に葬り去られてしまったのであった。後に残ったのは「ミコヤン・グレビッチが作ったスーパーカーがルマンに出たけど予選落ちした」というミコヤン・グレビッチには甚だ迷惑な風説であった。


数奇な生涯を送ったサントナーレ/M100。販売成績やレース戦績は目も当てられないが、そのC級な運命に我々は心惹かれるのだろう。
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プロフィール

ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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