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エストニア2

エストニア1がそれなりの速さを見せる中、セイラー率いるTOARZはほぼ同形車を造ることを決めた。もちろん1の1台だけでは色々と不利なので当然の選択だろう。ここでTOARZは、1をそのまま造るのではなく改良した上で投入することを決めた。


この内の1台がエストニア2である。デザインはA.セイラーによる。一見してどこがエストニア1と異なるのだろうか…?
目につくのはリアサスペンションの構造変更である。エストニア1も見てみよう。


さらによく見ると若干カウル形状が変わっているようにも見える。ボディ、シャシーともに軽量化も果たしてるようだ。この他にもエキゾーストシステムに手を加えられている。

エストニア2の初陣は59年のソヴィエト選手権。ミンスクで行われたこのレースにTOARZはエストニア3まで投入し3台体制という気合いの入れ方だったが、セイラーが駆ったエストニア2は2周でアクシデントにより戦線離脱。TOARZは4位にエストニア3のV.パージクが入ったに留まる。

それから2週間後、カレフで行われた「レーシング・ソサイエティ・プライズ・カレフ」にTOARZはエストニア1と2を投入する。
2に搭乗したセイラーは見事な勝利を得る。2位に1のアーヴァが入り完勝であった。

明けて60年、カレフで行われた「レーシング・オブ・ソサイエティ・プライズ・カレフ」にTOARZはエストニア2が1台、エストニア3を2台持ち込んだ。セイラーに託されたエストニア2が勝利し、2台のエストニア3が2-3位に入ったことで表彰台を独占した。もっとも、このレースにはTOARZの3台しかエントリーしなかったのだが。セイラーはファステストを記録している。

8月末にネヴァ・リンクで開幕戦が行われたソヴィエト選手権が本番である。TOARZはフォーミュラ3クラスにエストニア1から3までを1台ずつエントリーさせた。が、結果は3台全滅という悲惨な結果に終わった。

61年にはエストニア3の販売が始められた。これにより5月末に行われたソヴィエト選手権のネーマン・リンク戦はエストニア2が1台、エストニア3が4台という今までにない充実した体制が取られた。
2は今まで通りセイラーがドライブする。セイラーは3をドライブするV.ゼレンコフを抑え2番手に入り存在をアピールした。優勝はエストニア3を駆るA.セベイキンであった。

ネヴァ・リンクはセイラーにとっても相性がよいコースだ。ここがソヴィエト選手権の最終戦となったのは幸運だったかもしれない。セイラーは見事な勝利を飾る。一方セベイキンも地元ラウンドであったがまさかの5位。この瞬間、セイラーの61年ソヴィエト選手権フォーミュラ3クラスの総合優勝が決まったのであった。これはTOARZにとっての初のビッグタイトルとなった。

次に参戦したのは「インターナショナル・レース・プライズ・オブ・ソヴィエト」であった。セイラーは1周も出来ずホイールトラブルによってリタイアした。結局これが最後のレースとなったようだ。


TOARZの実力は本物だった。本格参戦の僅か3年目、しかもメーカーなどの息がかかっているわけではないのにも関わらずソヴィエト選手権のタイトルを取るという快挙を成し遂げたのは決してまぐれではないだろう。そしてこれが、以後も続くTOARZ快進撃の始まりに過ぎなかったとは誰が予測していただろうか…。
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プロフィール

ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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