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エストニア3(その2)

エストニア3はのべ36台量産されプライベーターに販売された。今後からそのような車が増えてくるわけだが、そのような車は一人一人、また一戦一戦の戦績を追うことはせずに特筆すべき大きいレース(主にソヴィエト選手権)、また改良がなされたマシンだけ扱う方向の予定である。ご理解頂けると幸いである。

62年にはエストニア3を使うエントラントも増加し、ロシアにも多くが渡っていた。

この頃から個人でモディファイを行う例が増えてきた。E.グリフェルはチェコスロバキアのESO-500のエンジンに換装を行った。


また、1台がヴァルトブルグ製の1Lエンジンを載せタイヤを13インチ(どうやらフォーミュラ・ジュニア用のようだ)にされている。

ソヴィエト選手権開幕戦のエストニアラウンド。21台エントリーのF3クラスは何と16台がエストニア3であった。勝ったのもエストニア3でありY.バグロフは腕前を見せつけた格好となった。また改良型のエストニア4も参戦したがさしたる戦績を残していない。

続くレニングラード戦もほとんどがエストニア3の中バグロフが制した。バグロフは余裕のF3クラスチャンピオンに輝いたのであった。ライバル不在と言ったこの状況、さんざんTOARZを苦しめたNAMI-041Mでさえも苦しい戦いを強いられるようになったのである。

恒例のインターナショナル・トロフィーではF3クラスに複数のエストニア3がエントリー。優勝こそG.サーガチェフに奪われたが2位にE.グルカレフのエストニア3が入っている。


62年もエストニア3の強さは衰える気配を見せなかった。また年末には36台ものエストニア3が製造されよりプライベーターにデリバリーされる。

明けて63年、ソヴィエト選手権のレニングラード戦にはF3クラスに多くのエストニア3が参戦した。その中でもM.リーべは速さを見せ優勝を飾った。

続くミンスク戦もエストニア3が勝利をあげた。リーべは3位に入りF3クラスのタイトルを獲得した。さらにエストニア、ラトビア、リトアニアのF3クラスチャンピオンにも輝いている。


63年も圧倒的な強さを発揮したエストニア3。F3クラスはもはやエストニア3ではないと勝負権は持ち合わせていないのと同義と言っても過言ではないだろう。こちらの写真は62年のものであるのは御容赦いただきたい。

64年になるとエストニア3は搭載エンジンの関係でF4クラスに格下げされることになった。転機が訪れたソヴィエト選手権の開幕戦リトアニアであったが、相変わらずエストニア3の一強は変わらず10台のエントラントは全てがエストニア3で埋め尽くされる事態であった。その中でもW.ベイシャンスはリーべの追い上げを振り切り優勝を飾った。

続くレニングラード戦ではV.アクシオナティスが勝利をあげた。しかし総合優勝は2戦ともポイントを稼いだリーべの手に渡った。
またリトアニア選手権の総合優勝もエストニア3が勝ち取っている。


64年になっても勢いが止まらないエストニア3。しかし全体を見ると経営難を乗り切って復活したTOARZが新しくエストニア12を引っ提げて参戦を行い始めた。それはエストニア3の戦闘力アップは各エントラントで行うことになることを意味する。


64年にはA.グリエルが手持ちのエストニア3にモスクビッチ407を積みフロントにラジエーターを組み込み、シャシーにも大改造を加えたマシンを持ち込んでいる。ここまでやると新しいマシンを作るか買うかした方が良さそうだが‥‥。ソヴィエト選手権では開幕戦に4位入賞を果たしているのでそれなりのポテンシャルは持ち合わせていたようだ。

65年、まずはいきなりだがラトビア選手権でJ.ヴェンテがタイトルを獲得した。次いでエストニア選手権ではA.ヴェスキが2位を獲得している。(この年のエストニア選手権はF1,F3,F4が同じクラスで争われた(!?)ようで実質的にはF4チャンピオンと言えるだろう)
次いでリトアニア選手権もアクシオナティスがタイトルを獲得した。

そしてソ連選手権であるが、まずはレニングラード戦。V.チャグネンコが勝利をあげた。
次いでリトアニア戦、今度はヴェンテが優勝した。シリーズ優勝はヴェンテの手に渡った。


登場から6年経っているが勝利をあげ続けるエストニア3。快進撃はどこまで続くか。

66年のソ連選手権F4クラスもエストニア3の独壇場である。レニングラード戦、1レース目はチャグネンコが勝ちをあげるが、2レース目はヴェンテが巻き返して優勝する。もっとも二人ともエストニア3であるが。
次いでリトアニア戦、1レース目はアクシオナティスが勝つが、2レース目はチャグネンコが久々の優勝をあげた。くどいようであるがみんなエストニア3である。しかしタイトルはコンスタントにポイントを稼いだA.アヴォルカルンスの物となった。


66年でさえ最速のF4の座に居座り続けていたエストニア3。しかしTOARZはこの年暮れに久々のF4新作であるエストニア15を完成させた。これは少なからずエストニア3に影響を与えることが予想された。

そんな状況をよそに67年もエストニア3は走り続ける。ソ連選手権開幕のレニングラード戦、2台のエストニア15はリタイア。それを尻目に優勝を飾ったのはE.ダーゼヴィノフのエストニア3だった。1台NAMI-041Mがエントリーして3位に入ったが、それで状況が変わるような勢力とはなり得ないものだった。

残念ながらどこを探しても67年のF4の総合結果が見つからないが、恐らくダーゼヴィノフが総合優勝したと思われる。そして車体規則変更が行われ、エストニア3はこの年限りで選手権から締め出されることになったのだった。


エストニア3は極めて強力なマシンだった。下手に弄ってしまったエストニア4が失敗してしまった一方、エストニア1から続いたスタイルの完成形に程近いものであったのでプライベーターから愛されるものとなったのであった。そしてこのマシンが、TOARZが巨大なコンストラクターになるきっかけでありまた土台であったのだった。
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プロフィール

ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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