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エストニア5

1960年代初頭、ソ連始め東ドイツやポーランドではフォーミュラ・ジュニア(以後「FJ」とする)と呼ばれるカテゴリが広がりを見せていた。ソ連内ではモスクビッチG3やKVN-1300Gなどフロントエンジン車が大勢を占めたFJであったが、TOARZはミッドシップ車を引っ提げてこれに参入することを決めた。

こうして計画が61年秋にスタートした。当初はR.ベルテロヴァとA.セイラーが携わっていたが、セイラーはインターナショナルカップに来襲したイギリス製マシン、特にクーパーT49モナコを見て感銘を受けたと同時に、祖国のスポーツカー分野における技術やコンセプトの立ち後れを痛感したようだ。こうしてセイラーはT49を模範としたスポーツカー設計を考え始めるが、TOARZにそのような余力はなかった。創設者でありながらやりたいことが出来ないTOARZの状況に彼はうんざりしつつあり、新しい仕事場での仕切り直しを考え始める。

そんなセイラーの思惑をよそにデザインは進められ、二人は翌年の春にFJマシンを完成させた。


これがエストニア5である。完成直後の1枚と伝えられている。
スチールパイプによるスペースフレームは標準的なものであるが、ボディ形状は非常に大きい進歩を遂げている。もちろんこのマシンもインターナショナルカップで圧倒的な勝利をあげたクーパーから影響を受けているのだろう。そのボディはアルミである。
ブレーキはモスクビッチ407、ホイールはZAZ-965から拝借しているようだ。要のエンジンは当時のメルクス(東ドイツ)やRAK(ポーランド)が積んでいたヴァルトブルグ312の2ストロークエンジンを搭載している。ただし、TOARZにはこのエンジンのノウハウがなかったため、パワーに欠けていたと伝えられている。生み出されるパワーを伝えるトランスミッションもこれまたヴァルトブルグから拝借した4速だ。


完成したエストニア5はA.グリフェルの手に託され62年のソヴィエト選手権を戦った。だが、開幕戦は13台完走のうち9位と冴えないものだった。
続く第2戦もリザルトこそ残ってないものの、あまり良くない結果であったようだ。

続いて63年、5も2台目が完成する。1台目と特に差異はなかったようだ。


ソヴィエト選手権ではFJカテゴリーは消滅し、フォーミュラ4という区分に入ることになった。開幕戦ではグリフェルが優勝、2台目を駆ったU.アーヴァも4位と好成績を持ち帰った。またそれは、メルクス61を破ってのことであった。

2戦目ではグリフェルとアーヴァで1-2フィニッシュを飾り、グリフェルは見事シリーズチャンピオンに輝いた。しかしながら、特別に招かれた東ドイツとポーランド勢には大差をつけられトップからは2周遅れと課題が残ったのも事実だった。

翌年からは排気量でのクラス分けの関係か、F4でも走れなくなってしまったようだ。さらに財政的に厳しいこともあり、エストニア5が大量生産されることはなかった。
65年にエストニア5の1台はタルトゥで行われたレースで失われてしまった。もう1台は現在スウェーデンで眠っているとの情報もあるが、噂話の域を出ないもののようだ。
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コメント

No title

完全にクーパーもどきになってきて、意外と進化早いですね笑
この時代の「鉄のカーテン」に覆われていた共産圏の
モータースポーツ事情を目にすることは全く無いので、楽しんでいます。
翻訳大変だと思いますががんばってください。

> 完全にクーパーもどきになってきて、意外と進化早いですね笑

よほどインターナショナルカップが効いたのでしょうかw セイラーは特によく観察していたと思われます。ミッドシップへの移行は意外と早く、この時期少なくとも車体の考え方などはそこまで遅れてないように見えます。モノコックへの移行はかなり時間かかりましたが…。

> この時代の「鉄のカーテン」に覆われていた共産圏の
> モータースポーツ事情を目にすることは全く無いので、楽しんでいます。
> 翻訳大変だと思いますががんばってください。

ありがとうございます。西側でさえ中々難しいこの時代のレーシングカーですが、頑張ってエストニア26-9まで書き上げたいと思います。

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プロフィール

ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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