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エストニア8(タルトゥ1)

61年に開催されたインターナショナルカップはソ連のレース関係者に衝撃を与えていった。
もちろんTOARZの指揮を執るA.セイラーも衝撃を受けた一人であった。彼は1周も出来ずホイールトラブルで戦列を離れたことを悔いたと同時に、クルト・リンカーンを始めとしたフィンランド人たちが駆っていたイギリスのレーシングカーに驚愕した。エストニア3をより洗練させたかのようなクーパーT42は思ったよりもずっと強力、先進的なデザインのクーパーT56はメルクスやRAKさえも突き放す、そして何よりも驚かされたのは軽快に走り抜けソ連の大柄なスポーツカーを凌駕したクーパーT49・モナコであった。

セイラーはこのように先進的なクーパーを始めとしたイギリス車に比べて我が祖国はどれほど立ち遅れているものかと考えるようになった。その様はTOARZのマシン開発においてもよく分かる。エストニア4はT42風のボディを採用し、エストニア5はT56のクローンのようでもある。
しかしこの当時TOARZではDOSAAFからの命であるエストニア3の量産を始め、フォーミュラの仕事が第一であった。そのフォーミュラ製作さえ経済的に難しくなりつつあった彼らにとって、全く未知のスポーツカー開発は不要不急なものだったのである。

セイラーは諦めずにスポーツカーを作るつもりだった。事実、彼は木製の1/5モックアップを作成していた。しかし状況は一向に好転せず、エストニア3のエンジン代金が遂に支払えなくなってしまった。TOARZは現代で言う破産状態に陥ったのだった。この際はエストニア3を作って貰わなければ困るDOSAAFが介入して何とか急場を凌いだが、この責を取ってかセイラーはTOARZを去っていった。62年秋、故郷であるタルトゥに向かい、そこの第3自動車修理工場を新たな仕事場としたのだった。

彼はそこで工場を仕切っていたM.タネルの協力を得てまったく新しいスポーツカーの製作に打ち込んだ。様々な人間や組織を巻き込み、自らの地位をも失ったセイラーの血の滲むような努力は実を結ぼうとしていた。
こうして63年夏、努力の結晶は完成した。


タルトゥで作られた全く新しいスポーツカー、エストニアという名ではなく「タルトゥ・1」という名が与えられた。見た目は気味が悪いほどクーパーT49にそっくりである。では各部のディティールを見てみよう。


まず心臓たるエンジンであるが、GAZ-21「ボルガ」のものを採用している。2.4L 直4のM-21と呼ばれるエンジンで、80hpほどを発揮したものと思われる。エキゾーストは纏めず右サイドに4本出しとなっている。


シャシーはスペースフレームにスチールボディを架装するというもの。M-21はミッドシップマウントされ、この当時のソ連では珍しいMR型式のスポーツカーとなっている。そこに組み合わされるトランスミッションはZAZ-965用であり、おなじみのと4速である。


カウルの開き方はT49と違い全体が前を軸に上がるというものだ。このためかドアは存在しない。ブレーキはモスクビッチ407、ホイールはZAZ-965用を流用している。


フロントから見るとT49をほんの僅かに顔付きを変えた程度のように見える。サイドに縦長のインテークを設けているのはエストニア5も同じであり、このデザインになにかを感じていたのかもしれない。この角度から見ると愛嬌も感じる。


このエンブレムはタルトゥ第3自動車修理工場のものと思われる。


リアのフィンはT49よりも大型のようだ。これは当時のソ連のトレンドに沿ったものかもしれない。

こうして完成したタルトゥ1には関係者全員が大きな期待を寄せていた。
そんな期待を胸に、セイラーは遂にこの新型スポーツカーをレースに引っ張り出す。

タルトゥ1とセイラーは63年の「レーシング・ソサイエティ・プライズ「カレフ」」に参戦した。グループBに分類されたが、そこで見事に優勝をあげた。
しかし問題もあった。クーパーT49と違いシャシーや足回りがまだまだ未熟、さらに出力も不足気味なタルトゥ1は、高速コースでは他の大型スポーツカーを引き離せるだけの実力を持ってなかったのである。


ミンスクを攻めるセイラーとタルトゥ1。いつどこのレース、またその結果は不明だが、このようなコースに限っては勝機があった。

63年秋、セイラーはタリンに戻りTOARZに復帰した。デザイナーとしての彼は優秀だったので彼をあしらう理由もなかったのだろうか。
そこでタルトゥ1は新たに「エストニア8」という名を得る。6と7がどこにすっ飛んで行ったのかは不明だが、ともかくエストニアシリーズとして扱われるようになったのである。
64年、セイラーはTOARZでエストニア10(タルトゥ2)の改良に打ち込んでいた。エストニア8はM.タネルに託されてレースを戦うことになったが、記録が少ない。

ネヴァ・リンクで行われたレース・オブ・プライズ・「チェンジ」ニュースペーパーにタネルはエストニア8をもって参戦した。しかし4位と悔しい結果に終わる。
さらに同じネヴァ・リンクで行われたローカルレースではエストニア10に続く2位となった。エンジンでフォーミュラ5にクラス分けしたのだろうが、フォーミュラと戦わされたのではタネルに勝機はなかった。

65年、エストニア8は新たにE.アーヴに託されることになった。彼は恐らくタルトゥ第3自動車修理工場の従業員だったと思われる。初陣はエストニアSSR選手権開幕戦であったが、3位に終わった。もっともフォーミュラ5クラスに割り当てられ、相手がH.サーマの実力ある個人製作フォーミュラとエストニア10では仕方ないだろう。


65年のエストニア8。隣のTartu-2とあるマシンは既にエストニア10という名前を付けられていたはずだが、文字が消されてないのはやや不思議である。


周囲の状況を見るとまるでラリーしてるかのようである。撮影日時は不明だが、ロールバーが装着されている。これ以外にこの仕様を見つけることはできなかった。
続く第2戦ではなんとエストニア10を抑えアーヴが優勝する。…何があったのだろうか。第3戦ではさすがに好結果は残せなかったようで、総合ランキングは3位に落ち着く。何人中のものか分からないが。

アーヴはレーシング・ソサイエティ・プライズ「カレフ」にも例年通り参戦した。いい成績を残したかっただろうが、フォーミュラ5・グループFクラスでの結果は8位。10台完走での結果なのであまり芳しくはなかった。


こうしてエストニア8は65年を最後にレース活動を停止した。通して見るとあまり結果を残したとは言えないが、ソ連モータースポーツの中において異色の存在となり存在感を放ったのである。


その後エストニア8はタリンの個人に渡りフィンランド、さらにスウェーデンを転々としていたようだ。06年モスクワの自動車博物館の手に渡った時には、ご覧のようなズタズタの状態だった。


しかしながら昨年にはワークショップの熱意あるレストアが完了し、見事なコンディションとなった。半世紀の時を越えて、セイラーの努力の賜物は甦ったのである。
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ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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