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エストニア10(タルトゥ2)

62年秋、タルトゥに向かったA.セイラーは前回の記事に書いた通り革新的なスポーツカーを目指しデザインを進めていた。一方でスポーツカーの完成が近付いた63年春にはフォーミュラ5規定に合ったフォーミュラの計画を考え始めた。

エストニア8が完成した63年の秋、セイラーは要請を受けてTOARZに戻ることになった。そこで彼は「エストニア13」と名付けられるF1規定のフォーミュラをデザインし始める。
一方タルトゥの自動車工場で働いていたM.マークはラリーのスペシャリストでもあったが、セイラーの影響かサーキットレースにも興味を持ち始めていた。それを察していたのか、セイラーはマークにタルトゥ時代に進めていたF5規定マシンのデザインを譲渡したようだ。
さらにセイラーはブレーキやギアボックスなど難しい部品をタリンで製作してマークに譲るなどかなりの援助を行った。すでに設計もかなり完成していたので、マークと工場の責任者であったM.タネルは難なく指揮を執ることが出来た。こうして64年夏に完成を迎えた。



セイラー率いるTOARZは「エストニア10」、タネルとマークは「タルトゥ2」と名付けた。



サスペンションはこの時期の東側フォーミュラとしてごく一般的なものである。かなり華奢に見えるのは気のせいだろうか…。ブレーキは全輪ドラムでありこの辺はいまひとつと言ったところか。


無造作に置かれるタルトゥ2。特徴的なのはリアの大半が覆われていることである。当時のマシンであるとモスクビッチG4が近いが、G4が完全に覆われてたのに対してタルトゥ2はまるでジェット戦闘機のような形態をしている。
エンジンはGAZ-21のL4を搭載している。出力は多少上げられ100-110hpを発揮したと言われている。特筆すべきはトランスミッションでありZAZ-965のクランクケースをベースにしながら5速ミッションを作り上げた。因みにこれ以降TOARZはギアボックスの販売を行っていた。

こうして7月に完成したタルトゥ2であったが、すぐにソ連選手権のレニングラード戦が待ち構えていた。一度は参加を検討したものの、マーク自身レースを59年の「レーシング・プライズ・オブ・「カレフ」」以降経験してないことや完全新車であることを考え取り止めることとした。彼はまずはエストニアの国内でライバルを駆逐し、ソ連選手権に打って出るのはそれからでもけして遅くないと説いた。

記録を見る限りではデビュー戦はネヴァ・リンクのオープニングレースのようだ。マークは仕事をそつなくこなし、エストニア8を駆るタネルを振り切り優勝を飾った。まずは幸先のよいスタートを切った形となる。

続いて「レーシング・プライズ・オブ・キーロフ」にも姿を現した。しかしここでは、I.ハングの駆るGA-22に敗れ惜しくも2位となった。GA-22は58年の設計ながら堅実なデザインで確かな実績を誇るマシンだった。


詳細は不明であったがカーナンバーや撮影場所が「Neva-Ring」となっていたことから「レーシング・プライズ・オブ・キーロフ」の写真であると思われる。幾分先進的なエストニア10であったが、この頃はロシアの技術力がかなりのものであったためエストニア勢は不利であった。

65年もエストニア10はタネルの手に託される。ヴァナモイザで行われたごく小さなレースではフォーミュラ5クラスで優勝を飾る。


恐らくエストニアSSR選手権のひとこまだと思われる。E.アーヴのエストニア8も加えた2台体制で挑んだTOARZであったが、開幕戦はH.サーマの個人製作車に歯が立たずマークは2位が精一杯であった。

第2戦はアーヴがまさかの優勝を飾り、マークはまたしても2位に甘んじた。


エストニア8の記事で上げた写真と同じ場所、日付であろう。
結局エストニア選手権では勝利を飾ることは出来なかったようだ。ランキングは2位に落ち着いている。

ソ連選手権レニングラード戦では冷却系トラブルによりリタイアを喫した。またエストニア11を駆ったユーリ・ヴィシニャコフが同レースで5位に入っており微妙な結果となってしまった。
続く第2戦では8位完走を果たしたが、13台の中では今一つな結果と言わざるを得ない。さらにヴィシニャコフのエストニア11は2位入賞という快挙を成し遂げなんとも言えない雰囲気が漂ってしまった。

「レーシング・プライズ・オブ・カレフ」では5位完走を遂げた。さすがにエストニア8のアーヴは引き離したが…トップのKVN-3000Gに2分20秒も引き離される事態には、さすがにエストニア10が十分な戦力を持っていないことを認識せざるを得なくなった。

66年、エストニア選手権の開幕戦では久々の優勝を成し遂げた。最も、相手はメルクス63とエストニア5であり完全にクラス違いではあるが。
続く第2戦でも優勝を飾ったマーク。しかしながら相手はメルクス63、エストニア5に加えなんとエストニア3と弱いもの虐め感が否めない。


66年、レニングラードでのソ連選手権に姿を現したエストニア10。これが事実上ラストレースのようだが、リザルトは分からない。グリッドは3列目、恐らく9番手だろうか。


08年のエストニア10。ご覧の通りレストアが必要な状態であるが、16年現在もこのままのようだ。戦績も生い立ちもぱっとしないためだろうか…。


全体的には成功したと言えないエストニア10。この後少々迷走することになるTOARZであるが、残念ながらその発端となってしまった。
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ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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