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エストニア11/エストニア12/エストニア13

TOARZにはA.セイラー関係でのごたごたの間ずっと放って置かれていたエストニア3の後継となるフォーミュラ3の計画が「エストニア9」として存在していた。しかし色々と落ち着いた63年の中頃になると余裕もできてきたのか、エストニア9計画を始動せようという機運が高まってきた。

一方フォーミュラ1規定のマシンもTOARZはこれまで製作したことがなく、こちらもまた急務であった。そこで何としても成功させたい9のテスト車両としてフォーミュラ1車を作ってはどうかという提案がなされたようだ。


そこでまず製作されたのがこのエストニア13だ。デザインはセイラーとK.キーレムによるものとされている。
デザインのベースは9であり、全体のラインは兄弟車の12と近いものがある。上方に上げられたエキゾーストが目を引くが、スペースフレームのシャシーに全輪ドラムブレーキ、エストニア10譲りのごく普通のサスペンションと堅実にまとめあげたものと言える。エンジンはトレンドに沿ってモスクビッチ407で、70hpを発揮したとされる。


実戦に投入された際にはエキゾーストはごく一般的な配置に直された。ダンパーユニットが露出したフロントサスが見える。

一方B.キットも平行してF1マシンのデザインを進めていた。


それがこのエストニア12である。こちらも9のテスト車両であるが、フロントサスがインボード式となっている。当時にしてはかなり先進的であろう。そこ以外はボディ形状が若干異なる程度でほとんど13と同一であったが、それはサスペンションの効果が如実に現れると言えた。


短いノーズ。下からせり上がるような形状は13とは逆である。

この2台は64年夏に完成し、さっそくレースに持ち込まれた。
まずエストニア12がA.グリフェルの手によってソ連選手権第2戦に参戦した。さすがに熟成もされてない新車では厳しかったか、7位に終わる。

続いての「レーシング・プライズ・キーロフ」ではエストニア10にも先を越されてしまい3位に終わる。これはさすがに厳しい結果と言わざるを得ない。

65年始め、まずはヴァナモイザでの草レースに参戦した2台であったが、なんとどちらもリタイアして勝利したのはエストニア3という間抜けな結末になってしまった。しかしながらファステストラップはA.グリフェルのエストニア12が記録しさっそく実力を見せつけた。
エストニア選手権開幕戦ではさすがに落とせなかったか、グリフェルが他を抑えて快勝した。ところがそこから調子を落とし、なんと最終ランキングはグリフェルが4位に入ったのみという結果になってしまった。

ソ連選手権開幕戦でもグリフェルは4位に入ったが、モスクビッチG4A3台にはまったく歯が立たなかった。さすがにメーカーワークスとなると厳しいものがあった。その勢力図は第2戦でも全く変わらず4位が精一杯であった。
結果がでない2台であったが、「レーシング・プライズ・オブ・カレフ」でグリフェルに託されたエストニア13はメルクス63と僅差の2位フィニッシュを遂げた。
続く「レーシング・プライズ・オブ「アンバー」ボルガ」でエストニア13がまたもグリフェルの手で快走して優勝を飾った。どうやら彼の腕の上乗せもあったようだ。

この戦績を比較したところ、TOARZでは次期F3マシンの開発データとしては12が適しているだろうとの結論に達したようだ。F1マシンとしてはとても成功したとは言えなかったが、TOARZが2番目に放ったベストセラーの足掛かりとなった点では歴史に名を残すマシンである。

遡って63年、TOARZは12と13だけではなく「エストニア11」の計画も存在した。レポートによるとどうやら先の2台と同じように9のアウトラインを引き継いだF1カーのようだが、いかなる事情によってかデザインは未完に終わってしまう。

一方レニングラード出身で自製マシンを駆ってレースしていたY.ヴィシニャコフはさすがにマシンのポテンシャルが厳しくなって来はじめたことを悟った。そこで64年にタリンを訪れたようだ。
どのような交渉がなされたのかは全くの不明であるが、TOARZはエストニア11のデザインを彼に売却することを決めた。こうしてエストニア11はヴィシニャコフの手によってレニングラードで製作されることになった。


完成したエストニア11。まずフロントであるが、形状を見るにエストニア12に似ている。足回りは基本的に12-13と同じようだが、フロントサスペンションがどのようになっているかは不明である。
エンジンはGAZ-13用のV8を積んでいる。当時としては破格の220hpを発揮する大出力エンジンであった。ちなみにフォーミュラ5規定に分類される。

そして最大の特徴は変速機が存在しないという点である。資料がなく判断が難しいが、恐らくラジコンのモーター用ギアボックスのような構造で割り切っていたのではないか?何れにせよ強大なトルクを持ち合わせたM-13だからこそ出来た芸当と言える。

ヴィシニャコフは65年のソ連選手権に参戦し、開幕戦でいきなり5位に入った。M.マークのエストニア10がリタイアに終わったことを考えると非常によい滑り出しだった。
第2戦ではZIL-112Sにこそ及ばなかったものの2位と言う好成績を持ち帰った。シーズンランキングは4位であった。

66年にエストニア11はM-13からGAZ-21のエンジンに載せ換えられた。その際ギアボックスもようやくヴァルトブルグ用ベースのものが完成して搭載されたようだが、何段かは不明だ。
またホイールもアロイになったらしい。66年からレースに出ていたようだが、記録で見つかるのは68年のソサイエティ・プライズ・「スパルタクス」である。ドライバーもA.セベイキンに変わっていたが、ここでは3位に留まった。

続いて同年のソ連選手権にも参戦したが、開幕戦は4位に落ち着いた。しかし次戦は8位に沈んだ。

レース・フォー・プライズ・「アンバー・ボルガ」にはE.マルコフスキーの手で出場したが、5位に入るのが精一杯だった。

これ以降は正確な記録がないものの、71年までレースに出続けたようだ。エストニアシリーズでも極めて珍しい生涯を送った11であるが、意外にも長く現役だったのである。現存はしていない。
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ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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