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たのしいソビエトモータースポーツ(フォーミュラ編)

私の記事はどうも小難しく全体の流れが掴めないと評判なので、本当は最初に書くべきだった全体の流れを各カテゴリごとに確認していきたいと思います。
なおここではかなり大きな影響を与えたマシンしか紹介しないので、あとは私のブログやussr-motorsportなり英Autosportフォーラムを眺めてみてください(人任せ)。

最初のフォーミュラと言えるのは、恐らく55年に登場したモスクビッチG1だと思われます。これは本来レコードカーに入るのですが、モスクビッチはこれをソ連選手権のモスクビッチクラスに投入したのです。ライバルは400,401,404スポーツなどなので好成績が期待されましたが、残念ながらリタイアとなってしまいました。


モスクビッチG1:レコードカーとしての活躍が目立ったがソ連最初のフォーミュラでもある。

それから2年後、GM-20と呼ばれるソ連初の「フォーミュラとして製作され実戦に投入されたフォーミュラ」が登場しました。GAZ-20エンジンを積んだ「グループB」用のマシンとしてデザインされたGM-20は投入当初から好成績を残し61年にタイトルを獲得しました。また同じデザイナーでGM-20の正統な後継であるGA-22も58,60,62年にタイトルを取っています。(62年はソ連F1選手権)


GM-20:かわいい見た目をしながら堅実な設計で好成績を持ち帰ったソ連初純フォーミュラ。


GA-22:GM-20の正統な後継。先代譲りの堅実設計と経験が役立ったかさらなる好成績を獲得。

59年には後世にもっとも影響を与えたと思われるTOARZの大成功作エストニア3がデビューします。フォーミュラ3(後にフォーミュラ4)に投入されたエストニア3はあまりに強すぎ、DOSAAF(ソ連版FIA)の命で36台生産されました。これはエントラント増大というよい面を生み出した一方、後のTOARZ一強の土台にもなってしまいましたが…。


エストニア3:TOARZの基礎を築いた名作。ソ連モータースポーツを一変させたといっても過言ではない。

60年代に突入すると世界のフォーミュラはミッドシップとなっていました。それに危機感を持ったのはモスクビッチ、彼らはFRのG3では今後主導権を握れないことを悟りました。そこで63年にモスクビッチG4を作り上げました。
当時主流となりつつあった葉巻型を早く実現し、MR形式を採用したG4はさっそくソ連F1のタイトルを取りました。
後継のG5はソ連初の全輪ディスクブレーキを採用、さらにメーカーワークスならではのアップデートをどんどん繰り返し68年投入にも関わらず73年にもタイトルを獲得する名車となりました。


モスクビッチG4:モスクビッチ復権。FRに凝り固まっていたF1クラスに革新の風を起こした。


モスクビッチG5:鉄のカーテンを越えるはずだった傑作。基本設計が62年ながら73年まで戦えたのはひとえにワークスならではの絶え間ない改良の成果だった。

一方モスクワ自動車道路工科大学(MADI)では独自にフォーミュラの製作を学生たちが進めていました。73年に完成したMADI-01は流行りのウェッジシェイプに加え、ロータス72を手本としたサイドラジエター形式を採用したのです。
残念ながら大きなレースには参戦することができませんでしたが、MADI-01は数多くのレース関係者に衝撃を与えました。


MADI-01:ソ連初のサイドラジエター採用車(初ウェッジシェイプはレニングラード2)。インダクションポッドを取り付けたり、BRM P207にも通ずる細いステー数本で固定するリアウィング(時代的にはMADIが先)を取り付けるなどのテストもした。

これに感化されたのはTOARZでした。TOARZはF3のエストニア9が成功してから14や16でF1でも活躍をしていましたが、いずれも葉巻型のマシンです。そこで75年にはウェッジシェイプ、サイドラジエターを採用したエストニア19を開発しました。
同年の選手権を制した19は翌年に前後ウィングを付けられてソ連選手権F3クラスでは4つものタイトルを取ったのです。生産台数も150台を超える紛れもない成功作でした。


エストニア19:最大のライバルモスクビッチが撤退した後のTOARZ一作目。新しいマシンを作るよりもずっと速く安いという評判を確立しフォーミュラのシェアを独占した。

79年にはラウル・サラプがデザインしたエストニア20がデビューします。ウィリアムズFW06を参考にしたと思われる20はソ連では恐らく初めての前後ウィングの角度が調整できる機構を持っていました。
260台もの数が生産された20はF3、フォーミュラ1600、フォーミュラ・オストクの3カテゴリで圧倒的な強さを誇りました。なんと90年までソ連選手権に参戦していたほどです。


エストニア20:ラウル・サラプの出世作。このマシンがTOARZ一強の決定打となった。

80年、世界では既にロータス78に端を発するウイングカーが猛威を振るっていました。TOARZもこの情報をキャッチし、82年にTOARZ初のグラウンドエフェクトカー、エストニア21を纏めあげます。(ソ連初ではない)
リアこそアウトボードですがフロントサスはロッキングアーム式を採用しており、安易なコピーではなく気流を使うための配慮も見えました。
21はその後21M,21.10へと進化し、先代の20とバトルを繰り広げつつなんと14個ものタイトルを取っていったのです。


エストニア21:TOARZ最大の成功作。生産台数は300台に迫り数多くのドライバーに愛された。

85年にサラプはフラットボトム規定に合わせたエストニア24を纏めあげました。最大の特徴はついに投入されたアルミハニカムのモノコックでした。
好成績が期待されましたが、サラプのテスト参戦は期待外れな結果に終わってしまいます。さらに悪いことにTOARZではアルミハニカムモノコックを生産する能力がなく、従来のスペースフレーム形式を踏襲した24.10なるものまで登場する始末。これでは意味がないと24は放棄されてしまいました。


エストニア24:背伸びして失敗の例。デザイン自体は後のエスティック884に持ち越されそちらは成功を収めている。

これではいけないと88年にはまたしても新型フォーミュラの計画がスタートします。今度は十分なノウハウを持つケイバーというヘリコプター工場の支援を得て、エストニア25が完成しました。
当時のF3などと近い外観を持つ25はアルミハニカムモノコックにプッシュロッドサスなどを持つ近代的なマシンでした。
90年に完成、実戦投入は91年からとソ連ももう終焉を迎える寸前、残念ながらソ連選手権ではタイトルを取ることは叶いませんでしたがウクライナやチェコで活躍を見せたのです。


エストニア25:ソ連時代に登場した最後のエストニアシリーズ。近代化が一気に図られ確かな結果も残した。

一応フォーミュラはこれで終わりです。次回(あるのか?)に続く…。
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プロフィール

ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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