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メーカーから読むDTM史(オペル・88-90年)

70-80年代にラリー活動で好成績を収めていたオペルであったが、ことサーキットレースとなるとメーカーをあげての参戦にはかなり消極的な姿勢が続いた。それは87年からのヨーロッパ・ツーリングカー選手権の消滅によるドイツ・ツーリングカー選手権活性化の流れにあっても同様であった。

しかし拡大する選手権は同社においても見過ごせる存在ではなく、88年に重い腰をあげて「オペル・モータースポーツ」としてマシンを投入することを決めた。だが、いきなりベース車両選びで躓いてしまう。


88年といえば主なライバルは怪物ことフォード・シエラRS500、既にタイトル経験もあるBMW・M3、そしてGr.Aレースで実績十分なメルセデス-ベンツ・190E 2.3-16である。その中オペルが投入したのは当時ラリーで活躍していたカデットGSi 16vであった。
恐らくラリー車両でのノウハウをそのまま使えることや選手権の劣悪なコース条件などが決め手となったのだろうが、その読みは脆くも崩れてしまう。


88年シーズンでは唯一の前輪駆動マシンであったが、着目すべき点はそれしかなかった。マシンは220-230hp程度と圧倒的なパワー不足を見せ、またドライバーのジョセフ・「セップ」・ハイダーもラリーストでありツーリングカーに慣れていなかった。さらに出場したのは最終戦ホッケンハイムのみと好成績など期待できる状況ではなく、32位とリタイアで全てを終えてしまった。

89年にチームは体制を強化。GM系列のチューニングメーカーであるイルムシャーをワークスとして送り込むことを決定した。さらにこれまでプライベーターとして活動していたキスリング・モータースポーツにも支援を行った。それはドライバーラインナップにも表れている。
イルムシャーは前年BMWワークスで最後までタイトル争いを演じたマルクス・オストライヒとアルピナに所属し優勝戦線にも顔を出したペーター・オーベルンドルファーを起用。キスリングはエースとして初代DTMマイスターであるフォルカー・ストリチェクを招いた。ドライバーだけ見れば他メーカーも羨むほどの布陣であるが、マシンは相変わらずカデットであった。


シーズンオフの記念撮影のようだ。メルセデスやBMWと比べると小さなワークス体制ではあるが、強力なドライバーを揃え飛躍が期待された…が、この日の空模様のように雲行きは良くならない。

カデットは相変わらずのパワー不足であった。オペルもオメガ3000/24Vをベースにすることを決定したため、カデットの開発はほぼ進められていなかった。さらにオペルのワークス体制と書くと聞こえはいいが、実態はイルムシャーやキスリングなどに資金の援助を行う程度のものであり本格的なテコ入れはされなかった。


その中でもドライバーは奮闘した。特にオストライヒはアヴスでの9位8位を始め数度のトップ10フィニッシュを果たしランキング19位につけた。しかしオーベルンドルファー、ストリチェクはトップ10に入ることも叶わず下位に沈み戦闘力の差を見せつけられてしまった。一刻も早いオメガの投入が望まれた。


翌90年、ワークス格のイルムシャーにはニューマシンのオメガ3000/24Vが当てられた。大柄な車体を引っ張る心臓部は360hpを誇るC30ユニットを搭載しライバルとの差も大きく縮まった。

チーム体制にも変化が起きキスリングは撤退してしまったが、その埋め合わせにシューベル・エンジニアリングがカデットを使用した。シューベルにはペーター・オーベルンドルファーが収まる。
一方イルムシャーはストリチェクに代わりフォードでタイトルを争ったクラウス・ニーツビーツを起用した。オストライヒも継続して参戦しオメガを駆る。


しかしいきなりオメガは足を引っ張られてしまう。開幕戦ゾルダーでエンジントラブルから炎上してしまい、イルムシャーは一旦引き上げてしまう。オーベルンドルファーのカデットはその間も走り続けたが、それで事態が好転するわけではなかった。
アヴスから復帰したオメガであったが、戦績は上向かなかった。360hpという出力はたしかに190EやM3を上回っていたが、190Eが2.5-16 Evoに、M3がスポーツエヴォリューションに進化していたことにより10-20hpほどのアドバンテージしかなかったのが痛かった。また新規参入を果たしたアウディのV8クワトロは410hpと強大な出力と4WDシステムで有力なマシンを作り上げていた。これによりオメガは直4勢にコーナリングで負け、V8にダッシュとパワーで負けるという極めて半端な立ち位置に苦しむことになった。


それでもドライバーは奮闘し、特にニーツビーツがニュル北で5位を獲得するなど健闘を見せていた。そして最終戦ホッケンハイムリンクでは赤旗再スタートの混乱を切り抜けニーツビーツがホールショットを奪う事に成功した。残念ながらその後は失速してしまったがスポット参戦のストリチェクが8位に入った。またオストライヒもノリスリンクで10位入賞を果たしており苦闘の中に希望を見出だした年であった。

90年後半の戦果はオペルにオメガの可能性を信じさせるのに十分であった。しかしながら、翌年のオペルを待ち受けていたのはまたも苦難であった‥‥。
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ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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