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エストニア25

エストニア24がまともなマシンにならなさそうなことが発覚した87年、TARKは早くも次期マシンのプロジェクトを立ち上げた。次こそはフラットボトムのモノコックマシンを作り上げるという意気込みを表すかのように目標は「国際標準のF3レベルのマシンを」となった。デザイナーはエステック884で忙しいラウル・サラプに代わってA.サドウスキーが指揮を執ることになった。

87年末にこのプロジェクトは本格的にスタートした。柱となったバスタブモノコックの設計と製作は「Kavor」社のヘリコプター工場が担当したと伝えられている。材質はアルミハニカムである。
サスペンションはロッカーアームから脱却するプッシュロッド方式を採っている。トレンドを追いかけた格好である。

開発は遅れに遅れプロトタイプマシンが完成したのは89年の1月であった。ウルマス・ポルドに託されてテストを行い、上々の結果を得た。


こちらが25のプロトタイプ。妙にフロントノーズが長くバランスが悪く見えるがこれまでのマシンと比べると一気に西側のマシンに近づいたと言えよう。サイドポンツーンの低さもトレンドを追った結果であり、サラプデザインから脱却が図られている。

テスト後にはラトビア人エンジニア、I.Rukutsaの助言もありボディワークに改修がなされた。こうして90年、この25はゆっくりとKavor社の工場で生産が始まった。さっそく有力ドライバー5人にデリバリーされたマシンは選手権でまずまずの活躍を見せた。


その一人、トイヴォ・アスマーのマシン。某タバコブランドを思わず叫びたくなるカラーリング…というかラクダまんまな気がするのだが…。

しかしこの25、値段が高騰し25000ルーブルと21.10の2.5倍にまで跳ね上がったのである。小規模なエントラントが大多数のソ連選手権でこれは非常にまずい状況だった。
そこでTARKは91年の始め頃に伝統的な(あるいは単に古い)チューブラーフレームの25を作り上げた。15000ルーブルと大幅に安いこの「25.20」と25を平行して生産するスタイルを取り続けた。また海外輸出も始まっている。

91年にはカーボンモノコックを採用する25.10の計画がスタートした。しかしアルミハニカムモノコックですら苦労するTARKでは明らかに手に負えないものだった。こうして92年に計画は中止に至ったのだった。

トランスミッションは相変わらずのZAZ-968M用。もうそろそろ上がるパワーにミッションの限界が近付いてきていたのだが…それでも他に使うものはなかった。エンジンは様々なバリエーションがあり、フォーミュラ1600用のVAZ-2106(145hp)、VAZ-21083(160hp)、ノルディックF4用のゴルフGTi用エンジン(170hp)、長生きのVAZ-21011(120hp)が選べた。またUZAM-412やフォードエンジンを搭載する例も存在する。

25は91年シーズンに開花した。主流の21.10と常に良い勝負を繰り広げ、レイナード883を退け勝利を上げたこともあった。選手権でシリーズ優勝することは出来なかったが、熟成され尽くした21.10や海外F3勢とよい勝負は出来たのであった。

25は66台生産された。内訳はモノコックverが18台とチューブラーフレームの25.20が48台となっている。圧倒的にモノコックの25が少ないことはマイナス点と言えるだろう。

25はソ連崩壊を受けてかなりの数がドイツやポーランドに渡った。またウクライナやベラルーシでは25を使った選手権も始まり活躍場所はまだまだ確保された。今も各地でそれなりに生き残っており、中にはB18Cに換装された個体もある。ソ連では頂点に立つことは出来なかったが、現在でも東欧を中心に愛されているのである。
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ゆーん

Author:ゆーん
東側諸国モータースポーツとサイエントロジー×モタスポとユーン様を調べているヤツ。ミニカー集めとかレースゲームもたまにします。 Twitter→@Kumaryoong

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